
空の鳥を見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。
働きもせず、紡ぎもしない。 (マタイ6:26,28)
■ 聖書に見る「お花見」
春は、何かが始まろうとする時です。春の風に誘われて外に出てみると、あちらこちらに花やつぼみが、それぞれのタイミングで、顔を出しています。花だけではなく、鳥も虫も、雑草までも、暖かさに誘われて、私たちの目の前に姿を現わします。「春眠、暁を覚えず」と人は言います。しかし、彼らは、確実に時のしるしを伝えてくれます。眠る私たちを、呼び覚まそうとしているかのようです。
◇桜渋滞
お花見の場所を探しながらハンドルを握り、桜が咲き乱れるところに差し掛かると、思わずアクセルを緩めてしまいました。うれしいことに、前の車も、スピードが落ち、桜渋滞となってしまいました。川沿いの見事な桜、古民家のそばにたたずむ一本の桜、庭の斜面を彩る芝桜、運転手には過酷なほどに、美しい世界が広がっています。
しばらく進むと、見事な枝垂桜が目に飛び込んできました。思わず、車を停めて歩きました。枝垂桜のそばまで歩いていくと、見上げても桜、目の前にも、足元にも桜が迫ってきます。柵があって入れませんが、枝垂桜の中に入れば、花に包まれるのだろう、と想像しながら、風に揺れる花のそばにたたずんでいました。何かが始まろうとするこの春に、主が備えてくださった、特別な時間でした。
◇嵐の中のお花見
毎年のように教会では、お花見を計画します。ある年は、川越の花事情に詳しい方が、自動車で巡り、車いすでも楽しめる見事なお花見コースを企画して下さり、高齢者も幼児も参加できるお花見を実施しました。参加者が思わず、「今までで最高のお花見でした」と言うほどの至福の時となりました。
とはいえ、その数日前と実施の翌日は、雨と風とでお花見どころではありませんでした。日取りが決まったその日から当日まで、天気予報とにらめっこだったのです。この「ハラハラドキドキ」も、「お花見」の中に入っているのでしょうか。計画を変更したり、延期したり、断行して、春の嵐に巻き込まれ、後悔したこともありました。しかも、そういう時に限って思った以上に人が集まったりするのです。春の嵐でお弁当に桜の花びらが入るのはいいのですが、砂まで入ってしまうほどでした。いつもなら歌を歌ったり、お互いの自己紹介や最近あったうれしいことなど、分かち合うゆったりとした時間を過ごすのですが、その日は、あまりに寒く、みんなでゆっくりと散歩して、あとは自動車からお花を見ることになったのです。
それでも、車いすの方が「どんなに嵐でも、外に出れただけでどれほど嬉しかったことか」と言ってくださったのです。「企画した者としては、そう言っていただくだけで感謝です」と言うと、少し怪訝な顔をして「お世辞じゃなくて、本当にそうなのよ。外に連れて行ってくれることがどれほど嬉しいことかは、元気な人が想像する以上のことなのよ」と目を輝かせながら言われたのです。
考えてみると、春の天候は変わりやすく、すぐ散ってしまう桜とタイミングを合わせることは、至難の業です。断行したとはいえ、反省しっぱなしでした。「思った通りに行かない」ということも、「お花見」に含まれているとすら思わされました。とはいえ、そんなお花見でも、あれほど喜んでくださったことに、感謝するとともに、車いすで生活することの想像を超える大変さを思わされる日ともなり、忘れることのできない「お花見」となりました。
◇聖書の中の「お花見」

自然豊かな田舎で育った主イエスは、思いわずらう私たちに、「野の花を見なさい」(マタイ六・二五以下)と述べられました。「命のことで・・・からだのことで思いわずらうな」と言われているのは、私たちが命のこと、からだのことで、思いわずらっているからなのでしょう。「思い通りにならない」ということを痛いほど味わうのは、からだのこと、いのちのことだからなのでしょう。
「思いわずらう」という言葉は、もともとはケアーすること、心にかけること、という意味のことばから来ています。「心配り」自体は大切なことです。問題は、多くのことに心を配り過ぎて、自分の分を越えてしまうことなのです。「あれも、これも」自分でケアーしようとするときに、思いわずらう状態に陥るのです。日本語の「心配」も、まさにそのような状態をさしているでしょう。聖書に、もう一度目を向けましょう。
野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイ6:28~29)
「野の花」を見るとき、どうしてこれほどにきれいに着飾ることができているのか、考えてみる時を持ちませんか。聖書でのお花見は、「思いわずらい」の中でむしろするのだと言うことが分かります。以前、ある家庭集会で、この話をしましたら、出席者の一人が思わず、次のように言われました。
「お花見は、気持ちのいい日、楽しい時のことかと思っていましたが、悩みの日にこそ、むしろ必要なことなのですね」。
あれもこれも心配になり、「いのちのこと」「からだのこと」で思い煩うその只中で、お花を見る。お花の存在を包む、目に見えない大きな何かに目を向けることが出来たら、と思うのです。
春、この季節は、新しいことが始まろうとする節目の時です。人生でもそんな節目があります。そうした時には、あのこと、このことに心を配ることは、ごく自然なことです。しかし、知らないうちに、分を越えてしまい、「思いわずらい」の中に入り込んで、自分を見失うこともあるかもしれません。そして、いのちを与え、からだを与えた方を忘れてしまうのです。そんな時こそ、聖書の「お花見」を思い起こしてみませんか。自分の想定や、計画や努力をはるかに超えた領域まで踏み込んで頑張るのをやめていいのです。自分の領域を見つけたら、その領域で精一杯頑張れば、それ以外のことは「いのちや自然を創られた方」にお任せするのです。この基本的なことを思い起こすためにも、野の花を見ることが必要なのかもしれません。
星野富弘さんの詩を紹介します。
「やぶかんぞう」
いつか草が
風に揺れるのを見て
弱さを思った
今日
草が風に揺れるのを見て
強さを知った (『風の旅』より)